幼少期~中学時代
国家公務員の父、専業主婦の母、姉と自分の4人家族。
決してお金持ちということではなかったと思うが、欲しいものがあればそこまで我慢せずに買い与えて貰っていたと思うし、当時の友人達の家庭状況からみても、まあ裕福な方ではあったと思う。そこにはとても感謝しております。勉強しろだの言われたこともなかったし、ゲームとかも好きなだけやっていましたね。楽しい時代でした。
ただそもそも集団生活に向いていない性格から、学校には初っ端からなじめず、何なら幼稚園から「なんじゃこりゃ、しょうもな…」みたいな思考をしている子供でした。いじめとかにあっていたわけではないのですが、いや厳密に言えば小1の時2件ほどそれっぽいのはあったのですが、極めて初期の段階で、あくまで隠密に先生にもばれず公になることもなく、暴力によって鎮圧することに成功できました(時代のなせる業)。まあ何というか、ふてぶてしいガキだったのです。
小学時代で印象にあるのは小5の時の担任で、陽気な体育会系(男性)でわりと面白いことも言うもんだから、怒ると怖いけどいい先生なんつって児童からは人気があって担任になったことを喜んでる奴もいた。私は当時から「アメと鞭を使って隷属させる手法のただの暴力教師だろ」的な感覚をもっていたので、その頃から一般とはやや乖離していたのかもしれません。
まあその見立て通りでそいつが担任になり日が経つにつれ、怖くて一時登校拒否になった人もいたし、私自身も「太りすぎだ痩せろ」(まぁ当時は太ってたけども…)や「性格が暗い」などしょっちゅうみんなの前で言われ、その後はすっかり同級生からも「暗い奴」というレッテルを貼り続けられましたね。ただ友人達の間はそんなこともなく変わらず付き合ってくれていました。物事の本質がわかる良い友人達だった(笑)
そしてそんなに悪いことをした覚えもないのに、結構ぶん殴られていた印象があります。黒板で使う用のでかい三角定規でぶったたかれてコブできたりとか普通にありましたからね。だけど私は恐怖は感じませんでした。いつでも殺(ヤ)れると思っていたので。実際できたかどうかはわかりませんが、あくまでマインドの話です。そう思えた根拠はまた別の機会でもあれば書かせて頂きます。
でも今考えると私がそういった波動をだしていたからそれが伝わって、その担任も単純に私が気に入らなかったのでしょうね。お気持ちお察し致します。申し訳ございませんでした。(笑)
普通は小5で担任になったら小6も引き続き受け持つのが定石だったのですが、実情が公になったのか保護者達から苦情がでて小6は別の担任になり、その後その教師は私が高校生の時、事実かはわかりませんが、風の噂で「同僚の教師と不倫が発覚し教職を辞めた」みたいなことを聞いたきりその後はわかりません。(因果応報というやつ?)
そんなこんなで中学生になり(田舎なので小学校からそのまま同じ面子で中学へ)特に問題もなく過ごしていたのですが、中2の時父の胃癌が発覚。胃全摘手術となり、ここから徐々に家計が傾いていく事となるのです。
高校時代
いわゆる学校の勉強は全然できなかった口ですので地元の3流…いや4流高校へ進学。いや…さすがに4流はないか、3流だろう(そこはどうでもいいわ!)
当時仲の良かった友人も何人か同じ高校へ行くので、クラス一緒だといいねと話していたのですが、結果私一人だけ違うクラスになるという。しかもその高校は3年間クラス替えがなかったので、そこで終わったと思ってしまったのです。(今となればその思考がまずかったと思うのですが…)
持前の人見知りを遺憾なく発動した面もありますが、幼少期から一緒に育ってきた人間と、それまで別な環境で育って形成された人格の人間とでは、対峙した時やはり大きな違いを感じてしまい、初手でつまづき、気付いた時には既に孤立しておりました。
学校自体はクソと思いつつ、楽しい友人関係はあったのでこれまではやってこれましたが、高校ではそれも無くなり、そりゃ行くのが苦痛のみになりますよね。時が経てば経つ程周りは関係性を固めていき、益々そのコミュニティには入れなくなり孤立度は増すばかり。これはもうダメだと思い自主退学しかないと思う反面、でも高校ぐらい出なきゃまともに就職も出来ないよな~という思考で葛藤していました。今ならアホらしい思考だと思いますが(とっとと辞めればいい)当時はその考え方しか出来ませんでした。なので自主退学はダメだが何かしらの理由でならいいだろうという、世間なのか親なのか、何に対しての体裁なのかよくわかりませんがそんな思考になっていました。なので「よし、誰か俺をいじめて来い、手を出してこい」と思っていました。そして殴り合いでもして退学になればそれはそれで良いと思っていたのですが、結論3年間誰ひとり私をいじめてきませんでした。私は高校の時点では痩せて割と細身となりおとなしくそして孤立している。当時はヤンキー文化も残っていてそれ系のグループもクラスにはいたし、私など恰好の標的だと思っていたのですが…。これもやっぱりマインドの影響なのでしょうか?(いいクラスメートだったというだけの話だろ!)
という事でその企みは頓挫し、残りは成績不振で留年⇒留年嫌!⇒自主退学という流れを期待したのですが、全く勉強せずとも普通に進級。(バカ高校でむしろ問題行動以外で退学や留年する方が難しい)ただここで何となく何故か吹っ切れたのです。2年に上がってしまったからには卒業しようと。高校卒業の資格を取得する施設として通おうと。文化祭、体育祭、修学旅行、遠足…etc 行事関連は漏らさず欠席し、授業はちゃんと出て問題も起こさず、友達は1人もいないという(笑)…。苦痛でしたけど、作業としてとらえればまあ何とか耐えれました。今となればそこまでして高校卒業せんでもどうせ非正規でしか働かないから大差ないよ。と言いたいですが、まあ自分の決めた事だし卒業式後自転車での帰り道は達成感と開放感があり「自分よくやった」と思ったし、やりきった経験として無駄ではないと思っています。(メンタル鍛えられた)
ただ全て一人相撲感は否めないですがね…。
社会人
私が高1の時から世間はやれ不景気だ就職難だと言っていて、普通科のまして3流、いや…やはり4流か(そこどうでもいいんだよ)の学校にろくに求人もくるわけなく、就職は決まらないまま卒業。近所にたまたま会社を経営している人がいて、そこで働かないかと誘いがありお世話になることに。結果派遣会社だったのですが、そこで派遣会社という存在やシステムを知る。今もあるところはあるのでしょうが、当時は派遣差別というか派遣先でのアウェー感が半端なく不快な思いも随分してきました。「なんだこのシステム」と思っていましたが、反面「そっちがそうなら別にこっちも適当にやるし…金は貰えるから」という面もあり、採用のハードルの低さと手軽さ、そして同年齢で比較すると給与も高かったので(若いうちだけなんだが…)こういう生き方もありはありと思っていました。
そして二十歳を過ぎた頃母より、カードを作ってお金を借りてくれないかとの打診をうけるのである。
すでに家計は火の車だった
そうなのです。一家の大黒柱の父は胃全摘出後はひどい後遺症によりまともに働けていなかったのです。とにかく物が食べられない(詰まって吐き戻してしまう)一度その様な状態となると何日も吐き続け、耐えて時間の経過を待つしかない、ひどい時は水分さえも受け付けない状態となることもありました。少し回復して復職してはまたダメでを繰り返していき結果定年退職を待たず公務員を退職する事となるのですが…。
父42歳で胃がん、働き盛りのまして公務員なんてこの辺りからやっと年収的にも良くなっていく時期じゃないですか?そのタイミングで収入激減となった上で姉と私を高校まで出してくれたわけで、私も学生で本当の意味で事の重大さに気付いていなかったし、家計のことなんて親に丸投げで考えもしなかったです。
子供にお金を借りてくれないかという時点でもう家計は取返しのつかない状況。気付いた頃には時すでに遅しでしたね。
おそらくこれまでの人生で一番辛かったであろう期間
- 父⇒公務員を辞め、体調もそれなりだったりまた悪くなったりを繰り返しだが何とかパートタイマーで施設警備の仕事
- 母⇒専業主婦
- 姉⇒離婚して子供一人連れ出戻り
- 私⇒非正規で工場勤務
そして全員、銀行・消費者金融などへ目一杯負債あり。
ここでツッコミどころがあるのは勿論わかっておりますよ。母は何故ここまできて専業主婦なのか?ですよね。
母は20代の頃脳出血を発症し、そこで「もやもや病」という指定難病持ちだと発覚。再発が怖いのと、姉は働いているため孫の面倒をみる名目もあり、その上で更に働きに出ろとは家族としても言い難かったし、母としても外で働く気はなかったと思う。母は高校出て専門学校へ行きそこで父と出会い即結婚。19歳からずっと専業主婦で40代まできてしまったので、外で働くという事に正直恐れがあったのではないかと思う。それに元々破滅思想的なとこがあり「年老いる前に早く死にたい」と言っていて、一家が借金まみれになっているこの状況も、二言目には「最後は自分が死んで(自殺)保険金で解決させるから」という人だったのです。
で、私自身の話に戻りますと、両親を扶養にいれつつ非正規で工場勤務。月収は手取り23万~25万ぐらいでしたが、給料日には即ゼロに、というかマイナスです。自分の返済だけではこんなことにはならないですが、一家の大黒柱ですので。給料日帰宅しても「ごめん。無い」と言われて終了です。(笑)
返済にも優先順位がありますから、私の給料ですが私自身の返済は後回しになったりもして、勤務先に取立の電話が来たりしましたね~。言うまでもなく自宅の電話はひっきりなしに鳴ってましたし、直接人が来る事もあったので、法律上取り立て出来る夜の9時まで、自宅にいないで一家で逃げまわっていた事もありました。今となってはエモい思い出です。
近代日本において奴隷制度を体験
1ヶ月頑張って働いて給料なし。来月も120%無いとわかってる上でまた働きに行く。
最低限度の衣食住だけ確保され労働だけするという奴隷制度のような経験をさせて頂きました。当時は肉体労働系の職種だったのでこれまた奴隷感に拍車がかかりました。
私がそんな中、周りの連中は、やれパチンコ、スロットで何万勝っただ負けただの、デリヘルでどうたらこうたら…みたいな話題が主で、パチンコもデリヘルも興味ないのでそれ自体には嫉妬も何もなかったのですが、そのクソほどしょうもないお金の使い方に嫉妬心というか、むかっ腹が立っていたので、そんな連中と交わる事もなく(話してる内容自体もつまんねえし…)社会人になっても基本孤独でした。(今となっては他人がどうお金を使おうが勝手だと思っているので何とも思わないですが)
この時期ばかりは親を恨みました。いわゆる一般的な家庭のように親が普通に経済的に自立さえしてくれていれば…ただそれだけでよかったのに。
私は自分で言うのもなんですが堅実な人間です。ムダな贅沢にお金を使う発想もないし、消費者金融から借金するなんてまず有り得ないのです。それなのに何でだ!なんで私だけ周りのしょうもない連中よりも遥かにこんな惨めな思いをしなければならないんだと。
適度に働いて、それ以外の休みは好きなゲームでもして、音楽聴いて、TVでも観て、それだけでいいのに…。そんな願望すら許されねえってか。
ふざけんじゃねぇ!!
いい加減にしてくれ。真面目で堅実なこの俺がこの状況のままなんてあり得ねえだろそんなの…。
何の手立ても思いついていないのですが、その願望程度の生活レベルまでなら必ず戻す。と決めたのです。
人間は辛すぎる時の記憶を無意識的に忘れてしまう事があると聞きますが、正直私もこの時期は記憶が曖昧な部分があります。20歳~23歳の内で、前述した給料ゼロみたいな一番ヤバイ時期は言っても1年半ぐらいだったと思うのですが(それ以外は3~4万こずかい程度はあったかな?)それでも結婚もしてない若者が二十数万稼いで家計の事情とはいえ3~4万のこずかいって、それで十分死にたくなりますけどね(笑)そこからこずかいすら無くなり、借金の取り立て・催促に追われつつ肉体労働って狂ってますがな…。
でも不思議と死にたいとは思わなかったんですよね。客観的に自分を観ると、私はつらい時どうやらベクトルが怒りに向くようです。他責思考が強いかもです。まあとにかくこの時期をのり超えた自分を褒めてやりたいです。よくやった。感動した。
自己破産
いわゆる一般生活レベルに戻すと怒りを込めて心に決めてからほどなく、事態は収束に向かいます。
父が職場の仲間の人にこういった家庭の現状を話していたところ、過去に自己破産をした事があるという方がいてアドバイスを貰う事に。
当時自己破産という言葉だけで、具体的にどういったものなのかは知らなかったし、ましてやその制度を使おうという概念すらありませんでした。何かイメージ的に自己破産してしまったらそれこそ、そこで人生終了みたいなイメージすらありました。ただ詳しく話を聞いた結果、デメリットとされる事柄が、我々には大してデメリットではなかった為(連帯保証人を立てた借金もなく他人に迷惑をかける事もない)一家で自己破産を申請させて頂く事としたのです。
勿論そんな軽い決断ではなく、理由はどうあれ借金を踏み倒す行為なわけですから、今後決して繰り返す事なく堅実に生きていく固い覚悟があっての上で。ということは言わせて頂きます。
~現在
自己破産後は当然の如く取り立てはパッタリ止み、精神上落ち着きを取り戻す事ができました。ただその後も事実上私が家計の主柱なのは変わりないので、何やかんや立て直すまで数年は厳しかったですが…。
そしてやがて父側の祖母が介護が必要となり父が帰郷したり、他色々あり両親は離婚(親とはいえパーソナルな問題なので詳しくは書きませんが…。というか深いとこの理由は私にはわかりません)その後姉と姪も父の故郷へ移住。(姪が中学を不登校気味で卒業後は環境を変えたい事もあり)となり、私と母の二人暮らしとなる。家事は全面母がやってくれるし、金銭面も趣味を楽しめるくらいは余裕も出てきて、過去に決めた願望は見事叶いましたね。そして私は独りの時間が好きで、基本人間関係を求めていないので、友達も恋人もなく、つくづく思考したとおりの現実になってるなあと思います。
そんな穏やかな日々でしたが、ずっと変わらずに続いていくという事は宇宙の摂理上ないのでしょう。
2023年5月 母が脳出血を発症し救急搬送。一命はとりとめましたが、脳血管に原因となった大きな動脈瘤があり予断を許さない状況。地元では手術できる病院がないとの事で、県外の病院へ転院し手術となる。7ヶ月の闘病を終え退院となる。要介護5、障がい者1級となってしまったが、今は近所にある特別養護老人ホームへ入所でき、それなりに穏やかに生活できております。
46歳にして人生初の独り暮らしを体験する事となりました。それ自体は別に何も思うところはないのですが、46年間当たり前に家にいた母のいない生活。独り色々と思いを巡らす時間が増える中、以前では思わなかった思考が徐々に浮かんでくるようになったのです。
自殺したいと思った事はないが、さして希望に満ち溢れて生きていたわけでもなく、私自身別にいつ死んでもいいと思っていた節がある。
このまま母は特養で生涯を終え、私もこのまま適度に働き今ぐらいの月収で何となく過ごし生涯を終える。
そんなんでいいの?
以前の私なら「イエス!」と言っていたはずだが、いやいや…。いい加減にしてくれ。あり得ねえだろそんなの。と思ってしまったのです。というより今の日本の現状を考えたらそれすら難しくなるのでは?思考の変化が必要です。
これまでの私は悪い意味で欲があまりなかったというか、稼ぐ事にフォーカスした事がなく、思考のご要望どおりそういった人生が現実化されてきました。(お金があればもっと楽な場面はいっぱいあったのにね)
母も全介助状態ではあるがボケてしまったわけではなく、表立って口には出さないが家に戻りたいはず。そんな母を自宅に向い入れ介護してやれる身分になりたいと思うし、それには会社勤めなんてしてられないし、自分で稼ぐ力が必要。
そして勤め人を脱却したいもう一つの理由として、私は働き始めてからどんな仕事でも大体月収20万近辺で、それ以上もないし逆にそれを割る事もありませんでした。これが私の勤め人としてのコンフォートゾーンであり、きっちり現実化してくれていたという事です。逆を言えば会社勤めをしている限りそれ以上はないという事です。このブロックもぶち破る必要があります。
そろそろ50歳も見えてくるおっさんがなに夢見てんだか…。とお思いになるでしょうが、出来なかったらそれはそれで別に誰に文句言われる筋合いもないし、幸い私は妻子もなく社会的責任も薄い暇人なので、良い目標が出来たと思っています。
「決めた事は現実化する。今はその過程の中。」これを肝に銘じて奮闘中です。
誰が読むんじゃい!こんな長文プロフィール!
どこの馬の骨かもわからねえおっさんのプロフィールをよぉ…。
いや、でもおっさんでも実年齢よりかなりお若く見えますねってよく言われるんですよ。(知らんがな!)
極力短くまとめるつもりが、気が付けばこんな失態を晒す結果になろうとは…自分でも驚きを隠しきれません。
ただ他の記事などの文面から、ただの「お気楽花畑クソ野郎」だと思われるのもシャクでしたので、人並みに苦労はしてきましたよ。という事を知って頂きたかったというのが正直なとこです。あくまで人並みです。もっと苦労している方など星の数いる事は承知です。
あらためて自らの人生を振り返ってみると、「そんな状態になる前に何とかできなかったか?」とか「本当にそうするしかなかったか?」など思うところはありますが、我々一家はコミュニケーション不足なとこもありましたし、「無知は罪」と言いますが、まあ簡単に言うと「アホ」だったと思います。知識はつけないと損するし苦しくなる。
一方人間なんて所詮アホな生き物ですし、過去に囚われるのが一番無駄だという考え方もあります。過去からは学ぶだけでいい。人生は「今」の連続でしかないのだから。
もし仮にここまで読んで下さった方がいらっしゃいましたら…
ここまでお読み頂きましてありがとうございました。